さて年賀状の試し刷りでもするかとどっかのライブハウスでもらったチラシを半分に切って(A6の用紙ははがきとほぼ同じサイズです)十年来使用しているレーザープリンタ(エプソンのLP-1700というやつです)に差しこんで印刷したところ、プリンタが紙詰まりを起こした。
やれやれと思ってカバーを開いて中をのぞいて見ると詰まった紙がどこにも見あたらない。んなバカな、そう思って探すこと数分。なんと排出口間近の部分に全部巻きこまれていた。その部分を開く手段はない。構造を慎重に検討しネジをいくつか外して分解を試みたがすぐに挫折した。ちょっとやそっとじゃたちうちできそうにない。つまりたかが紙詰まりのせいで使えなくなってしまったのだ。
まあこういう構造にした設計者の気持ちもわからなくはない。レーザープリンタの排出口近くにはトナーを定着させるためのヒーターがあり、こいつは高温になるのでうっかり触れるとやけどするおそれがある。そんな危ないところはなにがなんでも手が届かないようにしてしまえ、そう考えるのも一種の見識ではあろう。
だがその結果として、その設計者は使う者から大事な要素を奪ったわけだ――メンテナンス性という要素を。
もちろん紙詰まりを起こしたのは後生大事にとっておいた素性の知れない紙を使ったからで、身から(みみっちさから?)出た錆ではある。しかし紙詰まりそのものはどんな紙を使っていたってふとしたはずみで起こりうる。その頻度は制御用の部品が壊れるよりずっと高いはずだ。であるなら、可能なかぎり使っている人間が対応できるようにすべきではないか。仮にそうすることによって多少値段が高くなってもその程度は修理のコストと比較すれば充分相殺できるに違いない。
あえて断言しよう。使っている人間を危険から遠ざけようという配慮が結果的に利便性を損なわせているという点において、LP-1700の構造には欠陥がある、と。
などとやつあたり気味に書いているのには理由がある。まだまだ現役、捨てるのは惜しいと修理の情報を調べたところ見つかった文章はなんと「修理対応は終了いたしました」。えーっ、紙が詰まっただけなのに捨てなきゃならないんですかぁ!? んなバカな!
どうにかならないもんですかねえ、まったく。嗚呼。(2005-12-28)
――というまに十二月ですよ先生。今年は夏休みありませんでしたよ。それどころか六月から十月まで土曜もほとんど仕事してましたよ。三連休なんて夢でしたよ。県境もひとつしか越えてませんよ。それも通勤でだけ。ひとり旅くらいしか楽しみないのに。
またこーゆーときにかぎって何年も会ってない人が集まるイベントがあったりするんですよ。おかげさまで不義理をしなくてすみましたけど。まあ実に楽しい時間をすごせたので関係者の皆様方にはこの場を借りて厚く御礼申し上げます……が、そーゆーときもなぜか音出ししてたりビデオカメラをまわしてたりしたのはどーゆーわけなんでしょーか?
というわけでそろそろリハビリしようかなと思わないでもない今日このごろ……ヒマになる日が来ればの話ですが。(2005-12-03)
レコードのCD再発も何順めだかに入り、各社とも既発売分との差別化をどうはかるか頭を悩ませている模様。で、最近は初回限定のみ紙ジャケットという形態が増えてきたように思う。説明不要の人も多いと思うが、紙ジャケというのはLPレコードのジャケットのミニチュアのこと。LPのデザインをそのまま縮小して再現するわけです。普通のプラスチックのケースよりは愛想があるし薄いので多少は収納場所の節約になるし、で別に嫌いじゃない。
嫌いじゃないが、中にはちょっと待てよと言いたくなるものもある。
よくあるのはCDのジャケットを紙ジャケにしたパターン。LPとCDの切り替え期(1989年くらい)にCDでだけ出たアルバムをLPも出たアルバムと外観をそろえるためわざわざ紙ジャケにして再発するわけです。
そうするとどうなるか。文字などのエッジがボケボケになってまるで海賊版みたいなみすぼらしいジャケットになるのである。
紙ジャケというのは結局オリジナルのLPのジャケットから写真製版で作り直しているという話をなにかの記事で目にしたことがある。まあLPのジャケットの版下がいまさら残っているはずがないし、縮小するならそれでもかまわないだろう。しかし等倍で引き写したら劣化するのは火を見るより明らかではないか。CDジャケットの版下は残っている可能性が高いのだからそのまま再現するなりやりかたを変えるなりするのがひとつの見識だと思いますがね。
しかしこちらはオリジナルを再現しようとしているだけまだましだと言えなくもない。中には何を考えているんだかさっぱりわからないものもある。最近(2005年)では再発された高橋幸宏『What, Me Worry?』がまさしくそれ。サービスとして同名のミニアルバムから何曲かが追加されて発売されたのだが、ジャケットまでフルアルバムの表とミニアルバムの表を貼りあわせて作りやがった。どういうことかというと、表側がフルアルバムの、裏側がミニアルバムの表になっているのだ。そんな切り貼りされたものを誰が喜ぶと思ったのか? デザインした立花ハジメが泣くぞ、まったく。
商品に敬意を持っていればこんなことはできはしまい。銭を搾り取るための商売道具だとしか思わないからあんな無残なことが平気でできるのだ。紙のジャケットにすればあとはなんでもいいってもんじゃなかろう? 関係者には猛省をうながしたい……って、なにえらそうなこと言ってるんですかね、私は。(2005-06-26)
神奈川県でゲームソフトが有害図書に指定されそうとかで、これ自体さまざまな問題をはらんでいるわけだが、それとは別にまたぞろ「ゲーム脳」とかいう言葉がマスコミをにぎわしそうなヤな予感がする。
こんなことを言いだした森昭雄氏はマスコミにコメントを求められるたびになんでもかんでも「ゲーム脳」のせいにするこまった人で未成年が殺人事件を起こしても電車の運転士が事故を起こしても電車の中で化粧をしていてもヘソや下着を見えるように服を着ていても全部「ゲーム脳」のせいだと言ってのける(「メール脳」とも言ってたな)。こんなやつにコメントを求める記者の見識をまず疑わなければならないが、それをおいた場合「ゲーム脳」に関する研究は信頼できるものなのだろうか。管見のかぎりではとてもそうは思えない。
この件に関するWikipediaの記述はなかなかよくまとまっている。とりあえず他に批判として「斎藤環氏に聞く ゲーム脳の恐怖」と「『ゲーム脳の恐怖』森昭雄」をあげておこう。いずれのページにもさまざまなリンクがあるので興味を持った人は追いかけてみるといい。私がなぜ「ゲーム脳」に関する研究を信頼しないか理解してもらえるはずだ。
と、こんなことを書くこと自体馬鹿馬鹿しいと思っているのだが、一度マスコミで流布した言葉の悪影響を取り除くためにはどうやら身近なところからでもはじめなければならないらしい場面に先日遭遇した。なので、あえてここではっきりと書いておく。「ゲーム脳」なんてものはない。(2005-05-30)
ちょっと前の話。ときどき寄る焼酎と鶏料理の充実した飲み屋にひさびさに行ったら品書きが一新されていた。しまったと思い目を皿のようにして百以上はある焼酎の一覧をくまなく見たところ、やはりというべきか、狙っていた焼酎の名前は消えていた。くそう、一度も飲めなかったじゃないか。
その焼酎の名は「ロケット」と言う。
ご想像の通り種子島産の焼酎である。わたしゃ種子島宇宙センターを見学するために種子島に行ったことのあるほどの物好きだが、かの地でこんな焼酎を造ってるなんてことは行ったときは知らなかった。だからその店で名前を見つけたときはぜひ飲まねばと思い真っ先に注文したのだ。しかし返ってきたのは品切れというつれない言葉。以来行くたび(といっても気づいてからは数回だけど)に注文したがいつも返事は同じだった。これはもしや、と危惧していたら案の定。もしかしたら酒造が造るのをやめてしまったのかもしれない。しかし「百年の孤独」は残っているのに「ロケット」がなくなってしまったというのはなんだか釈然としない。いい名前じゃないですか、ねえ?
それにしてもどんな味だったのだろうか。やはり天にも昇るようなうまさだったのだろうか。それとも爆発しちゃうような味だったのだろうか。などと想像はふくらむばかりなのでありました。(2005-04-24)
街を歩いていて、ふと見上げた空が寂しく感じるときがある。
そんなときはたいていおおきな屋外広告がなくなっている。
なくなった場所に広告が復活することはめったにない。
そうして街の景色がすこしずつ変わっていく。
伝え聞くところによると昨年インターネット向けの広告宣伝費がラジオ向けのそれを越したと言う。宣伝をより耳目の集まるところで行いたいと考えるのは当然のこと。だから、たぶんこれからも屋外広告は減りつづけるだろう。電車やバスの外側に貼りつけるような目立つものを除いては。
街並みが美しくなると喜んでもいい。
けれどそれは、逆に言えば日常的な景色なんて誰も見なくなっているということではないだろうか?
ときにはそんなことを思いながら街を歩く。(2005-04-08)
私の名字には読みかたがふたつある。日本における氏名や地名の読みは油断がならないのでもっとたくさんあるかもしれないが、私は知らないのでふたつということにしておく。
で、私の名字はそのうちマイナーなほうの読みになる。マイナーなほうなので、メジャーなほうでよく呼びまちがえられる。子供のころからよくまちがわれた。ので、まちがわれても気にしなくなってしまった。ずっとつきあいつづける相手ならともかく、数回呼ばれるくらいなら気にしたってしょうがない。
あ、セールスの電話だけは別で、まちがえたら「そんな奴いねえ」と言うことにしている。最近は世間知らずが多いのでそう言うとたいていは正しい読みで呼びなおそうともせずに退散する。そんな奴がたいした成績をあげられるとも思えないのだが。
と、そんなふうにして平穏無事にいままで生きてきたのだが、最近もしかしたら私はまちがっていたんじゃないかと思わせられる出来事に立て続けにぶつかった。
一度は某大手企業を訪問したときのこと。受付嬢に声を出してあいさつし、取次ぎをお願いして訪問票に名前を書いて差しだしたところ、訪問相手を呼び出す電話で受付嬢がまちがえた。……まあこれは声がちいさくて聞こえなかったのかもしれないし訪問票にふりがなの欄はなかったし、と好意的に解釈できなくもない。
が、二度目のほうはそうはいかない。ひさあしぶりに旅行に行った先で宿を確保しようと旅行代理店に入り、用件を告げて注文票にふりがな付きで名前を書いて差しだしたところ、担当のお嬢さん(というにはちょっとつらい感じだったな)は以後ずっとまちがいつづけた。……ちゃんと読めよ。
形式によって内容がないがしろにされることはままあることではある。しかし接客するときはそんなまちがいにもっとも気をつけなければならないのではなかろうか。バイトじゃないんだからさあ。
と、いうわけで社会をこれ以上悪くしないためにも対面行為でのまちがいに対してはもっと積極的に自己主張していかなければならないのではないか、と思う今日このごろであった。
……おおげさだって? ハイ、オッシャルトオリデゴザイマス。(2005-02-21)
朝日新聞 vs NHKの仁義なき泥仕合はどうやら朝日が取材時に録音したテープを公表するかどうかがいまのところ焦点になっている模様。
……テープ? どの雑誌記事もそう書いているが、いまどきICレコーダーやミニディスクじゃないのか? もしかしてマスメディアってのはそういうあたらしい機械を使ったりしないのか?(2005-01-31)
先日某所で開かれた某夫妻歓送会の席上で、最近私が「最近の若い奴らは……」と言っている、という話題が私から離れたところで上ったらしい。
それは事実である。入社二年目の新人の常識では考えられないふるまいについて私はことあるごとに誰彼かまわず愚痴を言ってきた。辛抱強く耳を傾けてつきあっていただいた皆様方にはこの場を借りて厚く御礼申し上げます。
しかしそれは事実の一部でしかない……
仕事ができないのは若い奴だけではないのだあ!
……はぁ。(2005-01-19)
(私の愚痴を聞きたいという方は遠慮なくご連絡ください。いくらでも愚痴って差し上げます)
思うところあってティプトリー(このウィキペディアの説明、あまりよくないなあ)の短篇をぽつぽつ読みかえしたところ、「ビームしておくれ、ふるさとへ」と「男たちの知らない女」が核の部分においてほとんど同じであることに(いまごろ)気づいた。設定を変えていくつかの要素を鏡に写したように対称に置きかえてやれば「ビーム――」はほとんどそのまま「男たち――」になるのだ。にもかかわらず、前者は伊藤典夫氏によれば「発表当時は、みんなとまどっただけだった」、後者はヒューゴー・ネビュラ両賞の候補になり(辞退!)、「フェミニズム運動をベースに議論され」(大野万紀氏)その評判には「複雑なものがあった」(鳥居定夫氏)というのだから小説を読むのはむずかしい。いや、むずかしいのは小説を読む現実のほうか。
もっとも「ビーム――」がそう受けとられたのは無理もない。ただ読むだけだと語り口のせいでひどく個人的な願望充足小説みたいな印象が強いのだ。伊藤氏は宮沢賢治の「よだかの星」との類似をあげているが、それもそのあたりを念頭においての発言ではないかと思う。
しかし原題"Beam Us Home"が主人公を指し示す単語は"Us"、まぎれもなく複数形なのだ。主人公の願いは一人だけのものではないのである。
そう思って読むと「ビーム――」は「男たち――」に負けず劣らずの恐ろしい姿を見せる。
それで、私などはついこう思ってしまうのだ――「男たち――」をフェミニズムとの関連で語ることは、作者ティプトリーの意図からするとかなり的外れなことだったのではないか、と。
それにしても翻訳とはむずかしいものだとつくづく思う。伊藤氏の訳に意見することなどもちろんできはしないし、他の案が思いつくわけでもないのだが、それでも伊藤訳の邦題は人称の複数形をすくい損ねていると云わざるをえないのだから。(2005-01-09)