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善意の陥穽

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「ぼくは、いま、しゃべりたいことがあるんだけど、あくまでKというぼく個人のこととしてしゃべりたいんだ。でも、必ず、ぼくが何かいうと、「ある在日朝鮮人は……といった」という形で別のところで話されるに決まってるんだ。これじゃ、何もしゃべる気になれやしない。」

三橋修『増補 差別論ノート』(新泉社)p.4

 先のエントリでは森万里子氏の動機は問わなかった。問題は動機とはかかわりなく彼我を分断する関係の非対称の構造だからだ。
 残念なことに、善意や好意、正義感などとともに関係を結ぼうとする人たちはこの非対称の構造を軽視しがちである。
 そうなる理由はある。ポジティブな動機は関係の非対称の構造を超えうるものと一般的に期待されるからだ。その期待はかならずしもまちがってはいない。ポジティブな動機によって提示されるものの価値は普遍的であると目されやすいからだ。
 しかし常に正しいわけでもない。
 誰もが無条件に最優先で受け入れる普遍的な価値など実はない。価値を共有するものであってさえ苦渋の決断によってその価値を支持できない状態にあることさえあるのだから。だから関係の非対称の構造を無化するには価値を共有するための過程や価値の支持を可能にするための環境の用意が価値そのものと同様にきわめて重要だ。
 善意や好意、正義感などとともに関係を結ぼうとする人たちは、この価値を取りまく諸条件をおろそかにすることがある。価値の共有を無条件に要求し、希望が叶わないときに相手を非難することさえある。
 そうすることによって非対称の関係をかえって強化してしまう。

(前略)彼はそのとき、その抗議を「日本人」に向かっていっていたことを、どこまで気づいていただろうか。彼は「Kとしてしゃべりたい」といったとたんに、自分を「在日朝鮮人」という形で規定してしまっていたから、相手もまた「日本人」となってしまったわけだ。これはもちろん、彼の責任ではない。その会合では、彼は一人の在日朝鮮人として、日本人の側から遇されていたのだから。

三橋修『増補 差別論ノート』(新泉社)p.4-5

 この隘路から逃れる絶対確実な解決策はない。それぞれの問題がそれぞれに固有のかたちであらわれる以上隘路のかたちもそれぞれ異なるからだ。
 それでもたぶんひとつだけは言えることがある。相手を侮らず、貶めず、一人一人の個人であると認める態度を手放さないこと。そのようにして互いに向きあう姿勢を忘れないこと。そのようにして紡がれる営みの中に、おそらく希望はある。

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