森万里子氏の個展に行ったときのことは覚えている。フライヤーに掲載されていた社会に対する批評性を感じさせる作品に興味を覚えて足を運んだのだが、そう感じさせる作品はキャリアのほんの初期のものだけで、大半はエキゾティシズムに訴えかける、個人的な関心からは期待はずれのものだった。最後には失笑さえ浮かべたものだ。
その森氏が七光湾プロジェクトなるものを展開しているという。
指摘できることはいくつもある。しかしそれよりも見逃せないのは氏が自身の善意に疑いを持っていないように振るまってみせている点だ。
エドワード・サイードは『オリエンタリズム』序説のエピグラフにカール・マルクスの言葉を引用している。
彼らは、自分で自分を代表することができず、だれかに代表してもらわなければならない。
『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』
氏の振るまいはサイードの考えるところのオリエンタリズムを端的にあらわすこの言葉を思い起こさせる。エキゾティシズムの対象からオリエンタリズムの体現者への転身を果たした、というよりはもともとの資質が表に出る機会を得たということなのだろう。
自身の振るまいがそのような側面を見せている点におそらく氏は無自覚であろう。しかし仮に自覚的であったとしても、宮古や沖縄を自身が代わりに表象しようとするその在りかたは、表象される側を自身よりも劣位に措定する点において田中聡前沖縄防衛局長が問題の発言を行うに至った在りかたと表裏一体である。
2012年1月14日追記: このエントリはmixiにも掲載した。そちらにいただいたコメントへの返信を転載する。
サイードが提起したオリエンタリズムの問題は差別や植民地、中東の諸問題に
批判的に関心を寄せる人には避けることのできない課題で、日本と沖縄のかかわ
りにもその影は色濃く落ちています。現代美術の領域でも1960年代の岡本太郎氏
らの行動にそうした影は容易に見いだせます。
アートトーク は拝見していませんが、キュレーターの方が本当に「地元の人たちは、自分たちの文化を客観視できてない」と発言されたのであれば勉強不足を恥じるべきレベルです。帝国主義の時代に美術館や博物館が植民地支配に乗じて美術品や遺物、工芸品などを収奪してきた歴史を踏まえているとはとても思えない。そしてそのキュレーターの方が自分たちになら客観視や評価が可能であると考えているとしたら、それは端的に傲慢というものです。
自身を評価者として上位に位置づける発言が持つ政治性やその政治性が評価される側に与えるダメージも無視できない問題です。
コメントされた方が感じられた森氏の古代世界や神女への憧れも、個展で作品を見た印象からは、所詮は前近代社会へのノスタルジー以上には思えません(*)。言うまでもなく、ノスタルジーは満たされた現在においてなお失われたものとして求められる理想化された過去への欲望に他ならず、その意味では永遠に手に入りません。その不可能性について森氏がどう考えているのか(あるいは考えていないのか)は少々興味深い点です。
- エキゾティシズムとノスタルジーを現代的な意匠にまぶして提示する森氏の作品が欧米で人気を得るというのは、その意味ではたいへんわかりやすく理解できます。いい気なものだ、と個人的には思いますが。
以上の話は思想面に限ってのもので、経済や行政といった別のレベルでの批判や議論は別途必要でしょう。ここではくわしくは触れませんが、費用対効果に疑問を覚える典型的なハコモノ行政としての問題点もおおきいと思います。
2012年1月19日追記: 続きのエントリとして善意の陥穽を公開した。