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レビュー: 近藤銀河『フェミニスト、ゲームやってる』(晶文社)

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フェミニスト、ゲームやってる』は、2024年3月に惜しまれながら閉鎖されたWebマガジンWEZZYに掲載された連載をベースに、描きおろしを大幅に追加して刊行された近藤銀河初の単著です。

私は取り上げられているゲームはどれもやったことなし、有名なタイトルだけ目にしたことがある、程度しかゲームに関心のない人間なのですが、この本はとても興味深く刺激的な内容でした。

小説や映画などの片方向のメディアで受け手に求められるデコードのしかたはかならずしも明瞭とは限らず、故に批評の可能性が誤読といったかたちでも開かれます。操作によるユーザーとの共同作業が前提となるインタラクティブなメディアとしてのゲームの特質はその点においてはむしろ自由度は低いのでは?となんとなく思っていたのですが、著者は操作に対するためらいやとまどい、プレイの中断や放棄など、ゲームの求める規範の受容への抵抗にその契機を見て取ります。

ゲームという体験ではこの失敗は決してただの失敗ではなく、失敗自体が批評的に機能する可能性を持つ。(近藤『フェミニスト、ゲームやってる』「はじめに なぜフェミニスト、ゲームやってる」-「フェミニストにとってなぜゲームは重要か」)

これは私にとっては目から鱗の落ちる指摘でした。ミシェル・ド・セルトーが『日常的実践のポイエティーク』で紐解いてみせたような、そしてその系譜に連なるカルチュラル・スタティーズの業績が時に露わにしてみせるような、さまざまなかたちでの日常での抵抗の示しかたに連なると言ってよいでしょう。障がいとの関係で言えば、アビリティ(できるようになること)だけでなくディスアビリティ(できないこと)にも意味があるのだとの打ち出しでもあるわけで、ゲームに関しては前者に偏りがちな語りに対するカウンターとも言えると思います。

著者はこの視点とともにさまざまなゲームをプレイし語ります。ゲームをほぼしない私にはその語られかたの妥当性は評価しかねるのですが、著者の語り=ゲームとの相互作用の成果からは得るもの・学ぶものが多くありました。

とはいえそれらはあくまで私的な体験、プレイの過程に束の間浮かび上がる想いにすぎません。その多くは儚く消えゆく定めにあります。著者のように批評の営みを書き残そうと思い立たなければ。

それ故に、と言えるでしょう。著者はこの本を「フェミニストのためのゲーム作りガイド」で締めくくります。そう、ゲームそのものを生み出すことで、失敗や反省ばかりでなく、成功や肯定を積極的に残すようにできるのです。

それはゲームをプレイする主体に対する語る主体への誘いでもあるでしょう。ZINEや音楽などと同じように、ゲームもまたなにかを伝えるためのメディアになりうるとの。インディペンデントでDIYなシーンがマイノリティによる多種多様な語りであふれたとしたら、それはなんと素敵なことでしょうか。

ゲームそのもの、ゲームについて / をめぐって語ることについて、さまざまな示唆を得られた一冊でした。著者による続編、著者のような語り、そしてこの本とのかかわりで生まれたゲームが多く世に出ることを期待したいと思います。願わくは、その対象に言葉や物語によらないゲームも含まれますように。

ちょっと惜しいことに、文中触れられるゲームエンジンにはURLが併記されていなかったので、リンクを用意しておきます。

(電子書籍だったらすぐアクセスできるようにしてもらえるとありがたいのですが……とはいえこの手のリンクは時事物で将来の有効性を保証できないのが悩ましいところとは思います……)

せっかくなので著者インタビューのリンクも。

(文中敬称略)

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