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日常と化したカフカ的迷宮の中で私たちは労働している――フィッシャー『資本主義リアリズム』

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いまごろなんですが、今年の読書はじめはマーク・フィッシャー『資本主義リアリズム』(堀之内出版)でした。これならジジェクやバディウ他を直接読んだほうが早いかも、などとすこし思いつつ、映画の例が多かったりイギリスのすこし前の状況が垣間見えたりして興味深く読めた本でした。中でも秀逸なのは第八章に出てくるコールセンターをカフカ的迷宮にたとえるくだり。

それは記憶のない世界、原因と結果が不可解で謎めいた形で結びついており、そもそも何かが起こることが奇跡に思われる世界であって、やがては物事がスムーズに働くように見える反対側の現実へ戻れるという希望さえも失ってしまうような場所なのだ(p.159-160)

PR音楽の甲高い音によってところどころ遮られる倦怠感ともどかしさ、訓練も知識も不足している何人ものテレオペレーターに同じつまらない情報を何度も伝えることの繰り返し、しかるべき対象が存在しないゆえに無力なまま募るばかりの怒り。電話をかけてみれば直ぐ気づくように、答えを知っているものは誰もいないし、もし知っていたとしても何かをやってくれるものは誰もいないのだ。(p.160-161)

イギリスの話題ではありますし、もちろん何の滞りもなく解決することも多々あるのですが、この感覚に同意する方は多いのではないでしょうか。なんなんですかねえあのイヤな感じ。

しかしあらためて考えてみればこの感覚は電話をかける側だけでなく受ける側でも同じに違いないのです。たらいまわしにする側とされる側の違いは無視できないにしても。

そしてもう一歩踏み込めば、労働の現場においてもこうした状況は雇用の不安定化や派遣労働の常態化によって普遍化しているのではないでしょうか。情報の整理や共有は充分にはなされず、求められるのは当面の課題の解決のみ、先の話はいずれやってくる何者かに先送り。カフカ的迷宮に怒りを募らせる誰かは、同時にカフカ的迷宮を生み出し続ける誰かでもあるのです――いや、正確にはそのようにさせられているというべきでしょう。フィッシャーの言葉を借りれば「資本主義リアリズム」によって。

このような袋小路を抜けだすにはどうすればよいのか。フィッシャーは2017年に自ら命を絶ってしまいましたが、彼は同書の末尾でカフカ的迷宮を生き続ける私たちのかすかなよすがとするに足る示したかすかな希望を提示しています。その希望をわが身に引き寄せて実践していくにはどうすればよいか、遅ればせながらそんなことを思った読書体験でした。

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