図らずもこの一連の文章は己の無知の告白にもなっているが、柳宗悦氏の息子がデザイナーであることもまた知らないことのひとつであった。おそらくいつかの作品には触れたことがあるのだろう。その経験は私の中にどのように息づいているのだろうかと思う。
ものを使い、ものを介して人とかかわる以上、その経験が人に影響を与えないはずがない。
生きてゆくということは、いろんな人の“仕事ぶり”に二四時間・三六五日接しつづけることだとも言える。そして、「こんなもんでいいや」という気持ちで作られたものは、「こんなもんで……」という感覚を、ジワジワと人々に伝えてしまう。
(略)モノが沢山あるにもかかわらず、豊かさの実感が希薄な理由の一つはここにあると思う。(p.56)
必ず協力してやるのが、ほんとだと思っています。(p.60, 柳宗理氏の言葉)
産業社会に生きる私たちには、非生産的な物事を排除し、生産的であることを良しとする価値観が色濃く染みついている。(p.69)
優れた技術者は、技術そのものでなく、その先にかならず人間あるいは世界の有り様を見据えている。(p.72)
「こんなもんでいいや」という表現にはさまざまなニュアンスが含まれうる点には注意しないといけない。安易な妥協として発せられることももちろんあるだろう。だが不本意ながら発せられることだって多々あり、その原因はいかんともしがたい制約として存在することもある。だからこの言葉は簡単に否定して済む話ではない。その点は押さえておきたい。
また生産的であることそのものも容易には否定できないだろう。過度に生産的であろうとすること、そのために非生産的な物事の排除を徹底しようとすること、問題はおそらくそうした行き過ぎの中にある。そして先回まとめた「売る論理」にはそうした行き過ぎに歯止めをかけるしくみはたぶんないと思わされる点がまた問題なのだ。
ではどうするか、どうできるか。
柳宗理氏の言葉はひとつの回答を示しているように思う。氏の言う「協力」とは徹底した分業体制で各自が与えられた作業のみをこなすことを意味するわけではない。その逆だ。生産性を重視していては得られない優れたものを生みだすために担当の垣根を越えるための方法論であり、そこには協力する関係に発注する側とされる側の差はない。それはものを作る喜びのためにある。
西村氏の「人間あるいは世界の有り様を見据えている」という言葉はそうしたやりかたも含めてのものだろう。作り手同士の、そして使う側との関係を決して捨象しないこと。優れたものを生みだすためのはじめの一歩としてのコミュニケーションをおろそかにしないこと。仕事とはまずそこからはじまるのだ――ここではあえてそう言いきってみたい。