『自分の仕事をつくる』はインタビューに基づいて成りたっているが、インタビューを目的にしてはいない。そのためインタビューの分量よりもそれを元に著者の西村氏が検討したり考えたりした文章のほうが多い。故に引用もインタビューイのそれからよりも西村氏の文章からのものが多くなる。と、読んでいない人向けの断りを入れた上で、「1. 働き方がちがうから結果もちがう」の冒頭、「八木保さんをサンフランシスコに訪ねる」から文章を拾いあげよう。
使い易いということは、何かを捨てているわけだが、はじめて使うデザインの道具がコンピュータという世代の彼らにとって、省略されたインターフェイスは、モノづくりをめぐる前提条件として学習・認識されてしまう。
ちなみにその学生たちに、映画のチラシや雑誌の一頁からなにか良い題材を提示し、「これをコンピュータで完全に模倣せよ」といった課題を与える。すると、デフォルトのメニュー数値からはなれたデザインの細部、フォントサイズの細かい制御、ひとつひとつの文字間隔の調整。そうした仕事の存在が見えてくる。デザインの強度や緊張感が、どのような細部の積み重ねによって形成されているのかが、体験的に理解されるようになる。 そして観察精度が上がると、引きずられる形で、本人のデザインの精度も高まってゆく。デザインに限らず、スポーツや料理においても、模倣は基本的な上達法だが、そのポイントはまず観察を通じたイメージ精度の向上にある。(p.29-30)
本人の解像度の高さが、その人のアウトプットの質を決める。(p.30)
完成度の高い仕事には、その働き方の随所に、物事に対する観察力を高め、解像度を上げる工夫があらかじめ含まれている。(p.32)
働き手の身体とそれに育まれた感覚は、最も基本的な仕事の環境である。(p.35)
この節ではコンピュータによるデザイン作業に足りないものが検討されている。八木保氏の事務所では色彩検討をするような場面で街や森で拾った木の葉や石、ブリキなどのものを用いるそうだ。具体的な質感など視覚以外の情報が大事ということなのだろう。別の服飾デザイナーの例もあげられているので、そうしたやりかたを取る人は多いのかもしれない。
個人的に蒙を開かれたのは最初の引用、特に「模倣は基本的な上達法だが、そのポイントはまず観察を通じたイメージ精度の向上にある
」というくだりだ。体験に即して言うと、ソフトウェア開発の初心者にアプリケーション作成の課題を与えるとまずまちがいなくぼろぼろのインターフェースのものを作り、しかもそのことに無自覚で、普段使っているアプリケーションとの違いなど気にかけるそぶりも見せない。個人的にはこれはソフトウェア開発に特有の、分析的な態度がまだ身についていないが故の未熟な成果のせいと思っていた。そうではなく、デザイン教育などにも存在する、分析の前の観察の段階での課題であるとの指摘は思いがけないものであった。
そしてこれは重要な指摘であるように思う。はじめからオリジナリティを発揮できる人などごく一部の例外に過ぎない。多くの人は成長の過程でオリジナリティをすこしずつ身につけていくわけだが、そのはじまりが模倣であるとはっきり意識することは逆にその後の自分の仕事のありかたを意識する原点にもなりうるのではないだろうか。「仕事」をほかの誰のものでもない「自分の仕事」とする中にはそうしたことも含まれているように思う。
ただしそのためにはコピーと模倣の違いを明確にする / 意識する必要がある。その差がわからないようではオリジナリティなどあらわれようがないからだ。コピーと模倣の違いを意識すること自体が「自分の」仕事を意識する最初の一歩とさえ言えるかもしれない。
最後の引用の「身体」は観察力・解像度との関係で出てくる言葉だ。「世界を感じ取る解像度のことを思うと、そのフィルターとしての身体について考えざるを得ない
」(p.32)と氏は言う。出力の作成にコンピューターの力を借りたとしても、それは身体が不要になったことを意味するわけではない。むしろコンピューターによってさまざまな創作の間口が広がり平均点が押しあげられた中で入力を蓄積し咀嚼して出力へと変換する身体の重要性はむしろ高まっていると考えたほうがいいのかもしれない。それはたぶん感受性などといった言葉には還元されえない領域を含むのだ。
おそらくそうした観察力や解像度の高さ、その身体にはぐくまれた感覚は出力そのものだけではなく職場での立ち居振る舞いやそれによってかたちづくられるコミュニケーションにも影響を与えるに違いない。「仕事をつくる」とは、そういったもろもろをひっくるめた営為なのだ。そのようにとらえなおしてみたい。