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西村佳哲『自分の仕事をつくる』を読む(1): はじめるにあたって

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働きはじめてからずっと、と言ってしまってはあきらかに言いすぎだが、それでもことあるごとに、働くことについて考えてきた気がする。

少なくない人がそうであろうと想像するが、私もまた、できれば働かずに生きていきたい怠け者である。しかしいまの世の中よほどの好条件に恵まれないとそんな生きかたは無理だろう。当然のことながら私にもそのような条件はそろっておらず、口に糊するためには稼がなければならない。稼がなければ生きていけない世の中に対していささか含むところがないわけではないが、とりあえずその点については措いておこう。稼がなければならないという事実自体は、まあ認めるにはやぶさかではない。
 やぶさかではないが、できれば働きたくない――このふたつの事実だけを考慮するのであれば、労働と報酬が見あっていれば、つまりバランスが取れていれば問題はない、はずだ。言いかたを変えれば、割りきって働けるはずだ。

しかし、経験的には世の中残念ながらそううまくはいかない。
 まず現実的に労働と報酬のバランスが思いどおりにいくとはかぎらないという問題がある。私がいままで働いてきた環境はかなり恵まれてきた部類に入ると思われるが、それでも厚生労働省の定める過労死労働災害認定基準を超えて働かなければならないことはままある。世の中の平均的・典型的な働きかたを掬いあげてみたとき、そのバランスに満足している人はどれほどの割合になるのだろうか。個人的な事情におおきく影響されるとはいえ、特に昨今の不況下ではやはり多数派とは言いがたいのではないだろうか。

私自身にとっては、個人的な事情の中に仕事の内容とのかかわりかたという問題がある。
 就職してからいままでのところ、私はソフトウェア開発を生業としている。職階を分けだせばSEだのプログラマだのといろいろ細かく言うこともできるが、中小企業に勤める身としては結局のところなんでもやらないとどうにもならないから、自称するときはソフトウェア開発と言うことにしている。そういったなんでもやらないとならないところも含め、なりたくてなったというよりもたまたま就いた職業ではあるが、性にはあっていたようだ。
 性にあっていたのだから就業としては決して悪くはない――はずなのだが、こまったことにそれは仕事に対する割りきりをむずかしくする面もある。
 ソフトウェア開発と言うとぴんとこない人もいるだろうか、結局のところそれはものづくりの一バリエーションだ。ものづくりである以上できあがったものには出来不出来が存在し、その出来不出来がわかるということは自分の作るものもよいものにしたいという欲望を生む(もちろん業務上のさまざまな制約の中でという条件がつくわけだが)。
 この点、よいものにほとんど関心のない人から技術の研鑽を常々怠らない人まで、職場の同僚のあいだではかなりの温度差がある。もちろん前者にあたる人だってさまざまな事情があるわけだから一概には責められないし、後者にあたる人の中には仕事と趣味がほとんど一致しているような人もいてそうした人にはついていけないと思うこともある。一人だけで仕事ができるのであればどちらともそれなりに距離をうまく取ってつきあっていけばいいわけだが、たいていの場合ソフトウェア開発はチームで行うものなのでそうやりすごすようなことばかりもできない。年齢も年齢なのでどちらかといえばメンバーを引っぱっていくような立場に立たなければならないということもある。
 そういったもろもろの条件を考えあわせたとき、私の立ち位置――それほど働きたくはないがやるからにはよいものを作りたい――はある意味けっこう中途半端だ。
 そういう中途半端な立ち位置にあるからこそ、働くことについて思いをめぐらせずにはいられないのかもしれない。

最近は加えて不況の影響もある。私の勤務先もかなり影響を受けていて、よくあることだと思うがこういうときには管理を強化したがる人間があれこれ口を出しはじめる。うまくいっているときには問題ないようなことでもいちいちあげつらって手続きだのなんだのを厳しくして、結果更に雰囲気を悪くしたりする。そのような管理強化はいわゆる世間一般的な正論には違いないとは思う。けれどそれはよく考えてみるとものづくりの最終的なゴールとは実のところあまり関係なかったりする。ものづくりで稼ぐ会社がものづくりをかえって邪魔しかねないことをやりたがるというのはいったいどういうことなのだろうかと思ったりもする。

そんなこんなが重なって、ここしばらく仕事について、働くことについて、ものづくりについて、あらためて考えなおしてみようという気が強くなっていた。勤務先だって永遠に存続するわけでもなし、何があってもおかしくない。逆に終身雇用の時代でもないわけだから選択肢は常に開かれている(可能性はともかく)。そこで、落ちついて生きるためにも働くことをもう一度とらえなおしてみようと思ったのだ。

そんなときに書店で見かけたのが『自分の仕事をつくる』だった。並んでいたのは晶文社フェアの一画。ちまたにあふれる自己啓発系のビジネス書はとても手にする気になれないが、晶文社の本なら一定の信頼は置ける。それに装丁がいい。とりあえず手にとってぱらぱらとめくってみた。
 目に入ってきたのは次のような文だ。

教育機関卒業後の私たちは、生きている時間の大半をなんらかの形で仕事に費やし、その累積が社会を形成している。私たちは、数え切れない他人の「仕事」に囲まれて日々生きているわけだが、ではそれらの仕事は私たちになにを与え、伝えているのだろう。(p.5)
様々な仕事が「こんなもんでいいでしょ」という、人を軽くあつかったメッセージを体現している。(p.6)

読んでみる気にさせる文章だ。多少逡巡しつつ、結局は購入した(文庫版の存在はずいぶんあとになってから知った)。
 通して読んでみると、全面的に同意する感じではなく、共感と疑問を入り混じって覚えるような本だった。しかし書かれている内容はよく考えるに値するように思えた。そこで私としてはめずらしく抜き書きをしながらの再読を試みた。結構な量の文章を引き写すことになった。
 その引き写した文章を元に、私なりの考えをすこし書き連ねてみたい。

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