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仕事における共同作業と力量にまつわるいくばくかのつぶやき

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 日本の商業アニメーションの草創期から活躍されている名アニメーター、大塚康生氏が自身のインタビュー集で次のように語っている。

―― 高畑さんも宮崎さんも、ふだんは穏やかでも、いざ現場に入ると鬼になるという風評を耳にしたことがありますが。

大塚 そんなことはないですよ。二人とも、人に対しては鬼になんかなりません。ただ、作品に対しては鬼にも蛇にもなる。ものを作るためには、そうしなきゃならない場合もあるんですよ。自分が必要なだけの才能をスタッフに求めるから、どうしても冷徹に見えてしまうんでしょうね。でも、人が這いつくばってがんばって、やってもやってもこれ以上できないというのを、「死んでもやれ」とか、「体を壊してでもやれ」とか、そういう無茶を言うわけじゃありません。
 他人の才能を見通すことについては、そりゃ、二人ともうるさいですよ。なぜなら、これは僕にも経験がありますが、「こいつはきっとできるだろうな」と思って善意でやらせてみて、結局できなかったときは、こちらも失望が大きいでしょう。それがつらいもんだから、まず最初にそこを厳しく見極める……

(『大塚康生インタビュー アニメーション縦横無尽』(実業之日本社)p.255。聞き手は森遊机氏)

 仕事をする中で同じようなことを考える人はどれくらいいるのだろうか、と思う。
 共同作業をする中でチームのメンバーの力量の見極めは重要だろう。これは立場にかかわらない。使う側にそれだけの力がなければ使われる側だってその力を充分には発揮できないからだ。そうした互いの関係のあいだに生じる緊張自体が仕事をよりよいものにする力となる。その意味で、共同作業する人間の力量の見極めは仕事を自分のものとするために必要な行為だろう。
 そう個人的には思うのだが、他の人にとってはどうなのだろうか。
 さまざまな要素が考えられる。個々人の資質の問題に業務の環境の問題。力量の影響を受けやすい仕事もあれば受けにくい仕事もあるだろう。だから普遍的な真理であるとは自分でも思わない。
 しかしそうしたもろもろの要素や条件に先立って、できることを把握するよう努力することは、仕事に対する向きあいかたとしては大事ではないかという気もするのだ。
 そしておそらく、言われたことをただやるだけ、あるいは言ったことをただやってもらえばいいという態度では、こうした考えは出てこない。

 けれど、とここで考えざるを得ないのだが、もしこうしたレベルで仕事に対する考えや向きあいかたが他の多くの人と異なるのだとしたら、その差を埋めるのはもしかしたらたいへんなことなのではないだろうか。大塚・高畑・宮崎の各氏の考えが一般的には特別なものだと受けとめられているのだとしたら、どのようにすればお互いに共有するかたちで仕事をするところまでたどり着けるのだろうか。
 問いは本当にここにあるのだろうか。

 正直なところ、言葉を費やす虚しさも含め、途方に暮れている。

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